
JRAの役割
一八七五年五月一七日までに、クラブハウス、スタンド、門衛詰め所、厩舎六棟が出来上がり、同競馬場を代表するレース、ケンタッキー・ダービーが創設された。
本場イギリスのエプソム競馬場でのダービー同様、ケンタッキー・ダービーも牡の三歳馬が距離二四〇〇メートルで競い合うレースで、馬の耐久力と速度を試すためばかりでなく、将来の種牡馬候補を見極める狙いもあった。
(もっとも、三歳ではー馬の発育段階としてはやっとティーンエイジャーというところでーそれだけの距離を走れるほどに育っていないという苦情が出て、一八九六年には距離が二〇〇〇メートルに短縮された。
)ケンタッキー・ダービーはすぐに大々的な見ものとして世に認められ、一万人以上の人たちが参集してアリスタイディーズが一着賞金二八五〇ドルをさらうのを観戦した。
Kはビジネスマンとしてよりも夢想家としてのほうがはるかにすぐれていることが判明して、じきに資金難に陥り、一八九四年に別の金持ちグループに事業を買い取られる破月になった。
そのグループも利益を上げるのには苦労したが、Jドミニクーボールデスに設計を依頼してスタンドを新設したことで、ルイヴィルのスカイラインとホースマンたちのロマンティックな精神に不滅の貢献をした。
弱冠二四歳の設計者は素案が馬産地帯では多大な重要性を持つランドマークとしては壮大さが足りないのではと思い悩んだ。
ボールデスとしては州に対する自身の貢献を何か心に残るもので刻印したかった。
図面上で、彼は増築部分を塔と表記したが、二基が並列するその六角形の尖塔はそれをはるかに越えたものになった。
馬の楽園の門柱になったのである。
一対の尖塔はこのダートーコースの競馬場とそこで催されるレースに堂々たる風格を与えた。
Kは自分の残したものの持つ影響力を実感できるほど長生きはしなかった。
一八九九年、第二五回ケンタッキー・ダービー開催日のわずか二一日前に、破産し打ちひしがれたKはテネシー州メンフィスでピストル自殺した。
Dは前年当地へ来てスライヴに騎乗した際、この競馬場の持つパワーを実感していた。
彼は誰からも注目されなかった。
ニューオーリンズのそこそこの競馬会で勝ち目のない馬に乗っていた青二才にすぎなかったのだ。
しかし、あの巨大な一対の尖塔の下の走路に若駒を速歩で乗り入れ、彼が見たこともないほど立派な身なりをした観衆のどよめきを聞いたとき、Jは感激した。
翌日の新聞には彼のことはほとんど触れられていなかった。
記者連がジョッキーを名士に仕立て上げる東部とはちがって、ブルーグラスでは馬が主役だったし、ダービーは馬を飼育し、所有する人々を讃えるものだった。
Jは今回のダービーでも、騎乗するヒズエミネンスがレースの成り行きを大きく左右する駿足の若駒であるにもかかわらず、またもや黙殺された。
スポットライトを浴びていたのはよそ者のペア、J・W・Sという饒舌な馬主と、これまた多弁なW・Oだった。
Sはメンフィスの人間で、誇り高いケンタッキー人を威嚇するこつを知っていた。
三年前の一八九八年、彼はリーバカールという牡の若駒を連れてやってきて、賞金をテネシーに持って帰ると豪語した。
彼の妻は勝利を確信するあまり、持ち馬がケンタッキー随一の名高いレースに勝ったあかつきにその背にまとわせるルイヴィルー高価な花飾りを注文した。
リーバカールをオッズ一二二倍の人気馬にするほど、たくさんのテネシー人が夫妻を信用して賭けた。
Pがホームストレッチでラストスパートをかけてりーバカールをとらえ、鼻差で勝ったとき、ケンタッキー人はむろん大喜びした。
今回、Sが捲土重来を期して連れてきたアラールシェクという馬はダービー前日にCで火を吹くような追い切りをやっていた。
隣接する二州のいずれが自慢話の権利を手にするかがまたもやこの勝負にかかってきて、南部の記者連中は興味津々の筋書きに飛びつかずにはいられなかった。
「スタンドは美しい衣装と明るく輝く顔で埋めつくされた巨大な丘の斜面さながらだった」とサラブレッドレコード紙は報じた。
「馬場から見上げると、色彩の大爆布のようで、ナイアガラで聞こえる音に似てなくもない轟きが時折そちらから湧き上がってきた。
そこではケンタッキーとテネシーの紳士淑女たちが固唾をのみ、胸をときめかせてレースの決着を待っていた」。
一方、東海岸の記者たちの関心はもっぱらWに向けられていた。
彼はサナザーロに騎乗するためルイヴィルに来ていたが、新聞が取り上げなければ誰もそのことを知らなかったろう。
記者連中はアイルランド系の小柄な若者を追いかけて競馬場のどこへでもついていき、彼がー人でひっきりなしにしゃべり続ける間、猛スピードで走り書きした。
かれらの手帳は彼の馬の勝算以外のありとあらゆることでびっしり埋めつくされた。
Wは全米随一の傑出した騎手になりつつあり、走路を離れれば天性の話上手で、驚異的なスピードで次々と人名や逸話を口にした。
ことに首都ワシントン近辺の草競馬場でもぐりの騎手をやっていた頃に出会った連中を活写してみせるのが得意だった。
老いぼれ馬を走らせて一着でゴールさせるため、電気ショック式拍車やコカイン入りのワセリンを塗った肢巻(誘掻認詐。
)などに頼る手合いだ。
「レースに勝つためには、まっとうなジョッキーも不正工作についちゃできるだけ知っとかないとね」とWはグルになっている仲間に対するようなウインクをしながら軽口を叩いて、記者たちの爆笑を誘った。
彼はDの才能を披露することもあった。
これはDの原形で、西インド諸島に起源があり、奴隷を運んだアイルランドやフランスの船の船長たちが覚えてきたものだった。
黒人に扮した白人芸人たちの演じるミンストレルーSやボードヴィルの主たる演目だったが、Wは体型を維持し、体重が増えないようにするためにやるのだと称して、くぼんだ胸板をおおうように厚手のウールのセーターを二枚着込んで、毎日一時間音楽に合わせて足を踏み鳴らしたり、すり足をしたりして踊った。
ボクサーとしての体験談もいろいろ持ち合わせていて、不屈のヘヴィ級チャンピオン、J・L・Sと知り合いだったとか、サンフランシスコでヘヴィ級の強豪黒人ボクサー、Pとよく一緒に練習をしたとかいう話を人に聞かせた。
Jは西インド諸島生まれで、オーストラリアに移住し、同国のヘヴィ級選手権とブラック・プリンスという異名を獲得したあとアメリカにやってきた。
Sは「ニグロとはボクシングをしない」と言って、Jとの対戦を拒んだ。
だが九二年にSからタイトルを奪った「ジェントルマン」ことJが試合に応じて、両者は引き分けが宣せられるまで六ラウンドを戦い抜いた。
後にKはJなら自分の知っているどのヘヴィ級ボクサーとやっても勝てたろうと述懐した。
Wはその意見に賛成で、耳を貸す者には誰にでもブラック・プリンスはバッターDのすごい名手でもあると断言した。
落ち着きのない性分でありながら、Wは競馬に対する観察眼が鋭く、またアメリカ人同業者たちのヨーロッパ移住にかねてから大いに関心を寄せていた。
S、L、M、それに同じB配下のD・Mまでがあちらで王族や悪徳実業家たちの持ち馬に騎乗して成功をおさめていた。
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